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人と三毛猫とは、三毛猫を我慢できないイヌの愛好者がいるし、三毛猫好きで、とくにご婦人かそうだ。
イヌはどうも鬼門だという人もいる。
先達の考えでは、どちらに属する人も料簡が狭い。
実際に私は、あらゆるいきもののうち最も人間に近いところにいるこの二つの生き物を等しく好きだというときには、それこそいきものに対する本当の愛情と理解の証拠だと考えている。
心からの家庭の愛好者にとって、その熱意と尊敬を最高に掻き立てる生き物の世界の特質は、生物が繰り広げるつきることのない多様さや、家庭がつくりだす基本的には異質だがなお完全に調和したさまざまなあらわれ方である。
人間の心理学の立場からは、いきものの愛好者たちかいきものにたいする行動において、どれほど様々であるか、どれほど聡明であるかをみることは興味深い。
彼らは、純粋にそれ自体を目的にしようと、あるいは科学的研究を目的にしようと、すべての者がいきものをよりよく理解したいと望んでいる。
多くの家庭観察者は、いきものにたいして可能なかぎり影響をあたえないことを願っている。
彼らは、故意にそのいきものと個人的に接触することを避け、うまく囲われた隠れ場から観察する野外の鳥類学者のように振る舞う。
彼らの仕事の成果は、観察中のいきものに彼らがいることを気づかれないということにかかっているので、それに応じた行動をとる。
これの反対の極は、いきものとの間にもっと親密な社会的関係を結ぶ人びとに代表される。
彼らは、そのいきものから同じ種に属するメンバーとして遇される。
彼らは、そのいきものから同じ種に属するメンバーとして遇されその結果、まったく違ったやり方でその種のいきものたちの心の奥深いところに浸透するこの二つの方法はどちらも正当化されるしどちらにも利点と欠点があり、それぞれに考えられるかぎりでの変化と組合せ可能この二つの方法のどちらを採用すべきかは観察者にのみょるのではなく、観察される種にもよる。
いきものの知的水準が高ければ高いほど、またその性質か社会的であればあるほど、それを本当に理解しようとするならば個体との個別的な接触の必要性は増す。
かつてその精神的な資質を評価することはできないし、社会的に生きるいきものにも適用される。
三毛猫となると事情はいささか異なる。
先達の知り合いでもっとも熱心なイヌの愛好者は同時にイヌの最良の鑑定者でもあるか、同じことは三毛猫の愛好者にはいえない。
三毛猫の心性は微妙で、野生のままである。
それは、いきものにたいして愛情を無理やりに押しつけるようなタイプの人には、容易に開かれない、この点でもイヌはもっと従順だ。
いきものの飼い主が、保護の対象にたいして自分の愛を何処まで差し控える事かできるかは、飼い主のいきものと家庭についての正しい知識と理解を示すよいテストである。
三毛猫は、社会的に生きるいきものではない。
イヌは人の世話や「甘やかし」を非常に感謝してうけ入れるか、三毛猫の性格には子どもっぽさはまったくない。
三毛猫は人を頼りにしない野生の小さなヒョウであり、またそうありつづける。
ところが、多くの熱烈な三毛猫愛好者たちは、独立にたいする三毛猫の希求をまるで理解していない。
大きいイヌを都会の小さい家で飼うのは残酷だという間違った主張を再三耳にするか、同じことか三毛猫について言われたのを、私は決して聞いたことかない。
実際には、都会の小さい家は、散歩や用足さかも減ずるものではない。
しばしぼっづけて何日も家を空けるような、明白に野生的であり、ひとり勝手な暮らしをしているにもかかわらず、先達の極めて気難しくて男らしい猫は、同時に、私かかつて知ったうちでももっとも愛情の細やかな奴だった。
じゃれたり、食物をねだったり、あるいは誰かのひざにのって撫でられたりするのは、いきものの心に真の愛情かあることを示すものではないし、なかんずく三毛猫の場合はそうだ。
いきものか、特定の人間と一緒にいることを些かなりとも重んじて居るかどうかは、次のやり方で分かる。
すなわち、そのいきものをつれて外に出て、自分と一緒にいるか、それとも好き勝手な方向へ行ってしまうかを彼の意志の決定に委ねる事である。
私か自分で手塩にかけた二匹の若い三毛猫は大人になってからも戸外で私をうけ入れた。
どちらも、大人の三毛猫が本当の愛情を現すやり方の、唇を丸めてだす、奇妙な「フ・・・・・」という声で私を歓迎し、どちらも近所の森への長い散歩に私についてきた。
そのような遠出のおりには、もちろん三毛猫がひとりのときに選ぶような道を通る配慮をしてやらなければならない。
通りすがりのイヌの餌食にされるかもしれぬような、木や隠れ場所のない広い空間を横切らせることはできないし、こんもり茂った下生えの下をはって歩く覚悟をしなければならず、さらに三毛猫の歩行のペースに合わせなければならない。
最初のうち私は、この肉体的に好条件に恵まれ、みごとな訓練を身につけた筋肉質のいきものか、まったくすぐに疲れて遅れることに驚かされた。
三毛猫がイヌのように、口からだらりと舌をたらしてあえいでいるのをみたことかあるだろうか? たいていの人間にとってはまったく馴染みのない光景である。
健康で活力もある十分に成長した三毛猫でも、散歩する人間のゆっくりしたペースに、たった三十分でも、疲れの色を見せずについてくることはできない。
したがって三毛猫といっしょに散歩するときには、そのようなことをあまり強いてはいけない。
さもないと三毛猫は時期についてくるのを諦めてしまう。
しかし、道の選択や歩行のペースで三毛猫の先達と折り合えれば、非常に興味深い観察の機会に恵まれる。
とくに、三毛猫を先に歩かせ、はだしで、出すぎることなく、静かに黙ってついていくときかそうだ。
三毛猫がどれほど多くのものを見、聞き、嗅ぐかは、それと一緒で無かったら決して気づくことはない。
その歩行のなんと注意深く、一足ごとに突然の戦闘にかいする構えを備えていることか。
残念なことに、その戦いぶりにはあまりお目にかかれない。
暗くならないと戦いは始まらないからだ。

私はたくさんの三毛猫、それもとくに雌三毛猫を飼ってきた。
彼女たちは、家のなかでは先達の二匹の雄三毛猫よりも人なつこかったか、たまたま戸外で出会ったときには、どれもが私を一顧だにしなかった。
彼女らはあっさり私を「無視」し、唇の音で迎えてくれることは決してなかった。
事実、どれほどさりげなくしても、私か彼女らの仲間入りをしようとすると、明らかに疎ましく、煩わしい様子を示すのであった。
このことは、多産な妻、プシイの行動にみられる非常に顕著な対照であった。
野生いきものやそして三毛猫は野生のいきものであるは、もっとも信頼している人間にさえも、家庭の条件のもとでは、自分の種に属するメンバーにたいする以上に強い友情をあたえない。
成熟した雄三毛猫が、家庭の環境のもとで人間を仲間としてうけ入れる事実から、家に買われている猫もその野生の先祖も、一般に考えられているような世捨て人ではない、と私は考えるようになった。
私自身の経験から判断して、雄三毛猫は雌三毛猫よりも人間的な友情を結びやすい。
もっとも、先達の母は、かつて三毛猫を飼っていたか、そのどちらも森を長いこと散歩する先達の母についていったものだが。
都会の小さい部屋で三毛猫を飼うのをあきらめさせようとすることは、まったく先達の本意ではない。
都市生活では家庭と接触する機会か少ないか、美しい、家庭のままの三毛猫は町の通りに幾分なりとも家庭をもたらす。
もっとも、三毛猫を自由にして置かなければその十分な魅力は認められない、と私は申しあげたい。
三毛猫についての楽しい思い出と言えば私は、雄三毛猫と連れだっての静かな森の散歩を思い出す。
さらに、三毛猫に家庭のままに生きるようにさせ、三毛猫自身の家庭な状態のなかで三毛猫に接するようにして、三毛猫のあの身振りにはみせない真実の愛情を得るのが最も良いという事を、私は申しあげたい。
それと同時に、その内面の要求をこのようなやり方で尊重してやったいきものは、小さな猛獣としてつねにふりかかるあらゆる危険にさらされているという事実をうけ入れなければならない。
先達の三毛猫はどれも天寿を全うしなかった。
ト前肢を罠にかかり、敗血症で死んだ。
その次は狩猟熱の犠牲となった。
彼は近在の農家から七匹の飼いウサギを盗み、最後に盗みの現場を押さえられてその場で殺された。
しかし、平和な死をめったに迎えることかできないのは、ワシ、ライオソ、トラなどの運命である。
そして、これは私か愛した、近づきかたく屈服しない野生のいきもの、三毛猫の本質でもあった。
奇妙なことに、このことは、まさに三毛猫がなぜあれほど「家庭的」なのかの理由でもある。
というのは、その仕事を外にもつ者のみが、家に帰って「寛ぐ」ことかできるからである。
そして、炉ばたで喉をごろごろ鳴らしている三毛猫は、私にとっては家庭で寛ぐことの象徴であった。

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